北海道神宮 本殿(幣殿・拝殿)

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北海道神宮 本殿(幣殿・拝殿)

北海道神宮・本殿

読み方

ほっかいどうじんぐう ほんでん

創建年

1871年(明治4年):9月14日造営

再建年

  1. 1913年(大正2年):史上初の伊勢神宮の古材下賜による建て替え
  2. 1978年(昭和53年):1974年(昭和49年)放火により全焼、再建

社殿様式(造り)

神明造

大きさ

社殿面積:465.0㎡(140.9坪):幣殿・拝殿を含む

御祭神

  • 大国魂神
  • 大那牟遅神
  • 少彦名神
  • 明治天皇(1964年(昭和39年)に増祀)

旧社格

  • 官幣大社

※現在は神社本庁の別表神社

※創建時より現在に至るまで、北海道一宮としての扱いは変わらず

初代宮司

菊池重賢(当時の箱根八幡宮宮司)

 

北海道神宮・幣殿および拝殿

読み方

ほっかいどうじんぐう へいでん および はいでん

創建年

1871年(明治4年):9月14日造営

再建年

  1. 1913年(大正2年):史上初の伊勢神宮の古材下賜による建て替え
  2. 1978年(昭和53年):1974年(昭和49年)放火により全焼、再建

※拝殿の向拝(こうはい。参拝スペース)のみ、1988年(昭和63年)に拡張が行われました




北海道神宮「本殿・幣殿・拝殿」の歴史

現在に至る北海道神宮の本殿・幣殿・拝殿は、1871年(明治4年)に造営されたものですが、この社殿は北海道神宮にとって2つめの社殿です。

北海道神宮はそもそも、東京において開拓三神の勧請を行い、御霊代を東京から、函館を経て札幌へと運搬したものです。

東京から札幌へと御霊代を運んだのは、2代目開拓長官の東久世通禧(ひがしくぜ みちとみ。1834-1912)で、この人物は実質的に開拓使事業を始動に持ち込んだ功労者と言われています。

なお東久世は、1871年(明治4年)には侍従長に昇進し、かの有名な岩倉使節団にも随行しています。

話を戻すと、東久世は1869年(明治2年)の9月21日、品川から、英国船テールス号に乗船し、開拓使・農工民およそ200名とともに出港。

4日後の9月25日に箱館に到着し、開拓長官に着任しました。

ここから御霊代を札幌へとお運びし、いったん仮社殿を造営して鎮座させています。

この仮社殿の場所は、現在の住所で「札幌市北区北6条東1丁目」とする説と「北5条東1丁目」とする説があるのですが、北海道神社庁は公式の情報として、仮社殿は「北5条東1丁目」であったと発表しています。

その後、1871年(明治4年)9月14日に、円山に新社殿を造営しましたが、それが現在の北海道神宮の場所となりました。

 

↑創建当時の円山の新社殿(北大付属図書館蔵)
北海道神宮 略年表

1869年(明治2年) 9月1日 「北海道鎮座神祭」が東京の神祇官において執り行われる。開拓三神を勧請

1869年(明治2年) 9月21日 2代目開拓長官東久世通禧が英船テールス号に乗り、函館(当時の箱館)に御霊代を運搬。25日に函館入り。函館からは開拓判官島義勇が背負い札幌入り

1870年(明治3年)5月15日 北5条東1丁目に仮社殿を造営。「一の宮」「勅祭社」の名で呼ばれる

1871年(明治4年) 5月14日 社名を「札幌神社」とし国幣小社となる

1871年(明治4年) 9月14日 円山に新社殿を造営、現在の地に移転

1872年(明治5年) 1月25日 官幣小社となる

1893年(明治26年) 官幣中社に昇格

1899年(明治32年) 官幣大社に昇格

1913年(大正2年) 伊勢神宮より古材下賜、建て替え

1946年(昭和21年) 4月20日 神社本庁に所属

1964年(昭和39年) 10月5日 明治天皇を増祀・北海道神宮と改称

1974年(昭和49年) 本殿および拝殿・幣殿、放火により全焼

1978年(昭和53年) 社殿再建

1988年(昭和63年) 拝殿の向拝を拡張

北海道神宮「本殿・幣殿・拝殿」の構造

北海道神宮の本殿は、素木(しらき)の神明造です。

屋根、入口は、拝殿・本殿ともに切妻平入りとなっています。

内部構造については公開されていないため、詳細は不明ですが、参拝客が参拝する拝殿の奥に幣殿、さらに奥側に、通常は御簾に隠された本殿が配置されています。

千木の形

北海道神宮の千木の形は、外殺(そとそぎ)と呼ばれる形式です。

写真は拝殿の向拝部分の千木ですが、本殿の千木も同様の形をしています。

千木には、内殺(うちそぎ)と外殺(そとそぎ)があります。

内殺は、千木の上部上面が地面に対して水平となる形です。

外殺は、千木の上部側面が地面に対して垂直になる形を言います。

千木の風切り穴の個数

北海道神宮の千木に開けられた風切り穴の数は3つです。

鰹木の数

北海道神宮の本殿の鰹木は7本です。

拝殿にも、同様に7本の鰹木を見ることができます。

千木・鰹木と祭神との関係

千木や鰹木は、形状や数で主祭神の性質や性格を表すと言われています。

北海道神宮の場合、祭神は開拓三神と明治天皇です。

※北海道神宮のご祭神について詳しくは 当サイトの「北海道神宮に祀られているのはどんな神様? 北海道神宮の歴史・由来」をご参照ください。

いずれも男性の神ですが、神社建築においては一般的に、男性を主祭神とするお社は千木が外殺ぎの形状になります。

(伊勢神宮のような例外もあります。伊勢神宮では外殺・内殺が外宮・内宮で別れており、祭神の性別とは一致しません。)

また北海道神宮の鰹木は7本。

鰹木の本数は、やはり祭神の性別をあらわし、主祭神が男神であれば「陽数」である奇数に、女神であれば「陰数」である偶数になります。

北海道神宮では、鰹木の数は奇数ですから、ここからもやはり、男性の神様がお祀りされていることがわかります。

(これも伊勢神宮は例外で、内宮の鰹木は10本、外宮では9本と定まっています)

北海道神宮の建物形状のナゾ…!

北海道神宮の建物の形状は、切妻平入りという、神明造では一般的な造りです。

そして、神社において平入りの建物(切妻の、流れる屋根の側面側に入口があるタイプ)は、天津神をお祀りする建物であることを示す形状です。

平入りに対して、切妻屋根の妻側に入口がある「妻入り」の建物は、もともと日本の国土にいた土着の神々「国津神」をお祀りする建物です。

ここで気付くことがあります。

それは、開拓三神の「大国魂神(おおくにたまのかみ)」を大国主命と同一であると考えるならば、大国主命は天津神ではなく国津神の筆頭であるということ。

開拓三神の一人である大穴牟遅神も大国主命と同一であると言われますし、大国主命のパートナーであった少彦名神のまた国津神の一員です。

一方の明治天皇は、天照大神の子孫ですから、天津神の系譜であると捉えることができます。

このように考えると、北海道神宮には国津神と天津神が同時に祀られているわけなのですが、1964年(昭和39年)に明治天皇を増祀するまでは、北海道神宮(1964年までは札幌神社)は国津神の神社だったということになります。

にもかかわらず、この記事上部でご紹介した、円山に造成された初期の北海道神宮の写真を見ても、社殿は平入りの形状をしています。

一方、大国主命を祀る神社の筆頭、出雲大社の社殿は、妻側に入口のある妻入りの形状をしており、国津神を祀る神社の形状として適当であると言えます。

出雲大社。切妻屋根の妻側から参拝を行う妻入りの社殿。建築様式は大社造

天津神の増祀が「織り込み済み」だった?

札幌神社(北海道神宮の前身)は、明治天皇の詔勅によって建立された神社です。

建立当初は国津神しか祀られていなかったにも関わらず、当初から天津神を祀るための「平入り」の神明造で建築され、その後さらに、天津神の神社である伊勢神宮から社殿の建材を賜わっていた札幌神社。

実際に明治天皇を増祀するにあたっては、札幌神社のひとかたならぬ努力があったと聞いていますが、もとより神明造が用いられた札幌神社の建立にあたっては、何らかの天津神の増祀があらかじめ予想されていたのではないか……そんなふうに思わせる北海道神宮の社殿です。

北海道神宮では、増築された向拝スペースが妻入りの大社造を思わせるものになっています。

また、向拝部分の屋根にも立派な千木が天を向いて伸びていますが、これは神明造の代表格である伊勢神宮の向拝スペースには見られないものです。

北海道の神社では、札幌の西野神社や月寒神社・江南神社、利尻町の北見富士神社、余市にある余市神社等々、等々、数多くにこのような向拝が見られるのも、面白い現象です。

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