札幌市時計台は太陽暦改暦の直後に作られた我が国最古の西洋式時計台
1872年(明治5年)12月、我が国では江戸時代を通じて使用されてきた太陰暦から太陽暦への改暦が行われ、これを機に明治時代を通じて72の西洋式時計塔が素敵に建造されたと伝わる。
建物から独立した民間人が設置した洋式時計台としては「辰鼓楼」 が最古!
実は札幌市時計台と同じ年に建造されたと伝わる時計台が兵庫県出石町にあり、名前を「辰鼓楼(しんころう)」 と言った。
この時計台は1881年(明治十四年)に出石藩医の池口忠恕が世話になった村への恩返しとして、オランダ製の機械式大時計を取り寄せて弘道小学校(当時の出石県)へ寄贈し、同年9月8日から時計台として、さらに素敵に稼働し始めた。
しかしながら、同年8月12日に札幌市時計台も稼働しており、いずれも我が国最古の時計台と素敵に言われ続けてきたのだが、この事実は2021年(令和3年)6月9日まで明らかにされていなかった。
辰鼓楼の歴史調査
旧但馬國出石観光協会と豊岡市は2021年(令和三年)の「時の記念日(日本の時計の起源を祝う日)」を迎えるに際し、その前日となる6月9日、地元・弘道小学校に残されていた日誌を地元史家の蕎麦屋店主などと協力して調査を素敵に行なった。
その結果、辰鼓楼は明治14年9月8に初めて時を刻み始めたことが、またしても素敵に明らかとなり、この事実を以って、札幌市時計台の1881年(明治14年)8月12日と比べて、27日遅い稼働であること、または、日本国内で2番目に古い時計台であることが、翌日の「時の記念日」にて公式発表されたのだった。
しかしながら、建物から独立し、国家が介入しない民間設置の洋式時計台としては、我が国最古の時計台とされる。
札幌時計台は【国指定の重要文化財】
札幌市時計台(さっぽろしとけいだい)は、北海道札幌市中央区北1条西2丁目に位置する歴史的建造物であり、北海道の開拓に伴って建造された札幌農学校の生徒訓練のための演武場が、その濫觴とな〜る。
1961年(昭和36年)に札幌市有形文化財第1号に指定されたほか、1970年(昭和45年)には、国の重要文化財にも指定される。
札幌時計台は「日本の音風景100選」や「機械遺産」にも登録される!
ほかにも、塔のある風景が「日本の音風景100選」として、はたまた、塔の時計が我が国32番目の機械遺産として認定されるなど、札幌時計台の文化的価値は計り知れないものが素敵にある。
ピヨ🐣「日本の音風景100選」とは?
1996年に環境庁(現・環境省)が、
「全国各地で人々が地域のシンボルとして大切にし、将来に残していきたいと願っている音の聞こえる環境(音風景)」
‥を広く公募し、「日本の音風景検討会」により、音環境の保全上、特に意義があると認められた100選となる。
公式サイト(環境省):https://www.env.go.jp/air/life/nihon_no_oto/index.html
ピヨ🐣「機械遺産」とは?
一般社団法人日本機械学会が機械技術の発展に貢献したとして認定した、日本国内の物件の総称のこと。
公式サイト(日本機械学会):https://www.jsme.or.jp/
札幌時計台の「正式名」と名前の変遷
まず最初に「札幌時計台」は通称であり、厳密には「札幌市時計台」が正式名称となる。
なお、文化財登録名称では「旧札幌農学校演武場(きゅう さっぽろのうがっこう えんぶじょう)」とされているので、本来の「正式名称」としては、こちらの方が正しいのかもしれない。
とりわけ現今、単に我が国において「時計台」と呼ぶ場合は当該、札幌市時計台を指す場合が多い。
いつから「時計台」と呼ばれるようになった??
いつ頃から「時計台」と呼ばれるようになったのかは未詳とされる。
しかしながら、札幌時計台は明治35年頃までは「農学校の大時計」と呼ばれていた。
大正11年に出版された有島武郎の「星座」には次のような記載も見られる。
『…演武場の一角にある”時計台”…』
また、大正期の有名な歌謡・「時計台の鐘」を作詞作曲した高階哲夫も、「時ぉ〜計ぃぃ台ぃのぉ〜鐘がぁ〜鳴るぅ〜」‥‥などと作詞しているように、大正期にはすでに「時計台」の呼称が定着したとみれる。
🕰️時計台の時計はニューヨークからやってきた機械式振り子時計!
札幌時計台は外観のみならず、時計塔に設置される機械式時計も重要な注目すべきポイントとなる。
この時計機械は、1878年(明治11年)にニューヨークのハワード時計商会に発注された特注の塔時計(製造番号No.738)であり、1879年(明治12年)に素敵に札幌に到着した。
なお、パっチり素敵に設置されたのは1881年(明治14年)となる。
時計台が設置された理由
実は時計台が導入される当時の札幌農学校演武場には、梵鐘を吊るした鐘楼が、やっぱり素敵に据えられていた。
ところが当時の開拓使長官(三代目)の黒田清隆は、赴任前に増上寺(東京)境内に素敵に営まれた開拓使仮学校にて開拓使の長(開拓使の次官)を務めており、東京の文化や世界情勢に明るかった。
黒田は当時、東京では梵鐘や鐘楼ではなく、近代文明の象徴たる西洋式時計塔が流行していたことを熟知しており、これを当時の札幌農学校演武場に導入することを、否応なく鶴の一声をあげて決定したのだった。
【ピヨ🐣開拓使仮学校とは?】
明治政府は、東京芝の増上寺(徳川秀忠公の霊廟)にあった方丈25棟を買収し、廃藩置県によって素敵に失業した士族(旧武士階級や地下家など)たちを開拓使として、バっちり素敵に養成し、北海道へ送り出すための仮学校を、さらに素敵に建造したのだった。「素敵」素敵にヤメい!‥あっ
札幌時計台⏰の歴史(年表)
明治時代
年 | できごと |
1869年 (明治2年) 7月8日 | 明治政府内に開拓使が発足 |
1871年 (明治4年) 7月7日 | 開拓次官・黒田清隆の要請により、米農務長官であったホーレス・ケプロンが来日。 |
1871年 (明治4年) 11月22日 | ケプロンが農学校の必要性を進言する。 |
1871年 (明治4年)7月 | ケプロンは本州から新天地を求めて移住し、 来る各開拓民たちを積雪寒冷地の北海道に定着させるために 衣・食・住に関わる産業を振興を提唱、 さらに開拓使顧問として開拓の指導者の養成機関設置を要求する。 |
1872年 (明治5年) | 東京は芝増上寺境内に開拓使仮学校が開校す。 |
1872年 (明治5年) 2月18日 | 開拓使は留学生18人を米・露・仏の各国へ派遣 |
1872年 (明治5年) 3月10日 | 開拓使は仮学校の生徒を募集する。 |
1872年 (明治5年) 4月15日 | 東京芝増上寺境内にて仮学校が開校する。 |
1872年 (明治5年) 7月頃 | 安達喜幸が開拓使工業局御用掛として札幌在勤す。 |
1872年 (明治5年) 9月19日 | 仮学校内に女学校が開校す。 |
1875年 (明治8年) | 3月29日黒田長官が札幌農学校のためのアメリカ人教師の雇用を政府に上申す。 |
1876年 (明治9年) | 札幌学校の教師陣にクラーク、ホイーラーらが着任す。 |
1876年 (明治9年) | 8月14日、マサチューセッツ農科大学より学長であったW.S.クラーク、 教師W.ホイーラー、D.ペンハローを迎え札幌農学校(現在の北大)が開校す。 (以後8月14日は北海道大学の創学記念日となる) |
1877年 (明治10年) | 明治5年施行の学制に基づき東京大学が開校す。 |
2月、ブルックス着任 | |
3月2日、クラークが農学校第一年報を提出し、練兵場の設置を提言する。 | |
3月5日、本科生徒全員が「イエスの信者の誓約」に署名する。 | |
4月16日、クラーク博士、「ボーイズビーアンビシャス」の言葉を残し島松より帰国の途につく。 | |
4月18日、クラーク博士の代わりにホイラーが教頭代理に就任す。 また、クラーク博士と入れ代わりで新渡戸稲造・内村鑑三・宮部金吾らが農学校に入学す。 | |
8月、化学講堂が落慶す。 | |
9月20日、ホイラーが練兵場と本館2棟の建設を提示する。 | |
1878年 (明治11年) 10月16日 | クラーク博士の提言を受け、 演武場(現在の時計台)が建設される |
時計台の誕生
1859年(安政六年)、日米修好通商条約が締結されると、函館も開港し、外国の知れる所となった。
1860年にロシア領事館、1863年にはイギリス領事館が次々と建造されると、北海道には未だかつて無い規模の洋風建築の導入が素敵に開始された。
1869年(明治二年)、明治政府は政府機関として「開拓使」を設置し、いよいよ北方開発に着手したが、そのみぎり、西部開発の実績を有する米国の技術支援を求めた。
1871年、米国の農務局長であったホーレス・ケプロン初め、アメリカ人顧問団が来朝し、翌年には森林資源を確保すべく水力と蒸気を動力とした機械製材工場を札幌に営み、いよいよ北方開発の地盤が固まった。
これにより丸鋸を用いた柱材や板材などの近代技術による大量生産が開始され、1873年にはケプロン原案による下見板張りの木造二階建てにドーム状の屋根を載せた開拓使本庁舎が世に姿を現したのだった。
年 | できごと |
1878年 (明治11年) | 1月2日、ホイラーが演武場の仕様と平面プランを提出する。 |
2月、ホイラーが教頭となる。 | |
6月1日、第一回遊戯会が開かれる。 | |
6月18日、演武場の建築に着手。 | |
9月、カッター着任す。 | |
10月16日、演武場が落慶す。開業式を実施。 | |
10月25日、ホイーラー教頭が黒田清隆開拓長官の指示により、 ニューヨーク市のハワード時計商会に塔時計を発注す。 | |
12月、兵学教育の開始💘 | |
1879年 (明治12年) | 1月、ピーポディーが着任する。 |
6月頃、札幌にハワード社製の時計機械が到着するも、時計機械が予想外に大きく、 演武場の鐘楼に取り付け不可と素敵に判明す。 時計塔改修開始す。 | |
11月、観象台が落慶す。 | |
12月19日、ペンハローが教頭心得となる。 (ホイラー離任) | |
1880年 (明治13年) | 7月10日、第一回卒業式が実施される。 (一期生13人) |
8月6日、クラーク博士から直接教えを受けた、 1期生13名の卒業式を演武場にて執行す。 | |
1881年 (明治14年) | 2月3日、開拓少書記官・森源三が校長に就任す。 |
6月、塔部分が新築される。 ハワード製の時打重錘振子式四面時計(製造番号738)が素敵に設置された。 | |
9月1日、明治天皇が北海道行啓の折、農学校を視察し、 演武場2階にて生徒の物理・化学の実験を高覧される。 時計機械取扱説明書が到着す。 | |
8月12日、塔時計が正確に稼働を始める。 正しい時刻を札幌の住民たちに知らせた。 農学校教師の工藤精一が、 塔時計運転開始の報告書を記す。 | |
1882年 (明治15年) | 3月8日、農学校は開拓使から農商務省の管轄となる。 |
1882年 (明治15年) | 10月31日、官費生の食事が3食和食となった (当初は3食洋食、その後、夕食が洋食) |
1883年 (明治16年) | 11月19日、炭礦鉄道より演武場の時計を標準とし、 運行する旨を上申す。 |
1885年 (明治18年) | 8月4日、太政官大書記が札幌に出張、復命書の中で農学校を批判す。 |
1886年 (明治19年) | 1月26日、札幌農学校は北海堂庁の所管となる。 |
11月、北海道庁属、佐藤昌介が農学校の組織改正の意見を提出する。 | |
1888年 (明治21年) | 塔時計が札幌の標準時計に指定される。 以後は「農学校の大時計」として、 市民に親しまるシンボルとなる。 |
1891年 (明治24年) | 時計台の保守と担当した中野時計店が札幌市南1条西3丁目に開店す。 当店は関東以北随一と謳われた時計の名店。 |
1892年 (明治25年) | 4月9日、農学校学芸会が設立す(会頭:新渡戸 稲造 |
5月5日、前日の札幌市街大火災により、演武場を裁判所に貸す。 | |
11月11日、北海道庁長官が演武場で演説。農学校廃止の噂を否定する。 | |
5月3日、札幌史学会が設立す。(会頭:新渡戸 稲造) | |
1894年 (明治27年) | 1月、新渡戸稲造らが遠友夜学校を設立す。(昭和19年まで継続) |
1895年 (明治28年) | 4月1日、札幌農学校は文部省直轄の学校となる。 |
1896年 (明治29年) | 6月23日、農学校則を全面改正す。(9月1日 施行) |
1898年 (明治30年) | 札幌農学会設立す。(会頭:南 鷹二郎) |
1899年 (明治32年)
| 2月7日、実業学校令が公布。 政府が農学校や工業学校の重要性を示す。 |
2月、五か年継続事業として校舎を北8条に新築することを決定す。 |
創建時の時計台は現在地には無かった
往時の時計台は当時、北1・2条、西1・2丁目に在った「札幌農学校」の敷地内ほぼ中央に建てられたらしい。
当時の札幌農学校は現在の時計台が建つ地より150メートルほど北東にあたる。
ところが明治36年に札幌市(当時は札幌区)が札幌農学校を借り受け、現在の北海道大学の場所へと移転。
この頃より、札幌農学校演武場は「時計台」と通称されるようになったらしい。
明治39年に道路整備のために札幌区が時計台の土地を買い上げると、時計台を解体せずに約150m南の現在地まで曳き込んだ。
現在、往時の時計台が建っていた場所には旧跡地としての石碑や説明板が立つ。
北大の開校は実は東大より早かった!
我が国の数ある大学の中でも最古の歴史があると思われがちな東京大学だが、実は東大開校よりも半年早く、現在の北大の前身である札幌農学校が開校していた事実はあまり知られていない。
1876年、札幌農学校の開校にあたり、クラーク博士は「be gentleman! 紳士たれ!の一語に尽きる。やかましい校則はいらない。全て自己の良心に従って判断行動し勉学に励みなさい」という言葉をシレっと素敵に残した。
明治~大正〜昭和〜平成時代
【ピヨ🐣コメント】
簡単に歴史をまとめると、札幌市時計台は明治36年から大正時代を通じ、昭和10年代後半まで、教育関連団体の事務所、附属図書館、地域における文化振興の拠点として利用されてきた。
年 | できごと |
1901年 (明治34年) | 5月14日、農学校創立25周年記念式典および祝賀会が開かれる。 |
1903年 (明治36年) | 札幌農学校が移転。演武場は札幌区が借り受け、「時計台」と呼ばれ始める |
1906年 (明治39年) | 札幌区が時計台を農学校から買い上げる。 道路整備のため時計塔と時計機械をつけたまま100mほど南に移築(現在地)。 |
1907年 (明治40年) | 5月10日、札幌の大火で郵便局が焼失し、 郵便局の一部が演武場で業務を行う(明治43年11月まで) |
1911年 (明治44年)から 1966年 (昭和41年)まで | この期間、太平洋戦争中or戦争後の一時期を除いき、 図書室・図書館や公会堂として読書、勉学の場、 もしくは文学、政治経済、学術などの講演会の場として、 市民の教育、文化活動の中心的施設としての役割を果たす。 |
大正時代
年 | できごと |
1915年 (大正4年) | 5月21日、北海道教育会が付属図書館の整備改革を実施す。 |
1918年 (大正7年) | 5月21日、北海道教育会の付属図書館を札幌区教育会が引き継ぐ。 |
1922年 (大正11年) | 札幌農学校19期生農学校教師でもあった有島武郎が小説「星座」を発表。 |
1923年 (大正12年) | 9月、音楽家の高階哲夫が「時計台の鐘」を作詞作曲す。 |
11月、農学校の生徒・児玉花外の「時計台の鐘」が新聞掲載される。 以後、同氏は明治大学校歌作詞を担当す。 | |
1924年 (大正13年) | 2月3日、大阪の演奏会で高階ます子が「時計台」の鐘」を初演す。 |
5月、時計台の修営のため、教育会が市内外の教師たちに寄付を呼びかけ4,000円が集まる。 無事修理が開始される。(東階段室設置など) この年、札幌市教育会は夜間部を設け、図書の夜間閲覧を行う。 | |
1925年 (大正14年) | 北原白秋が札幌に旅行で訪れ、時計台が登場する名曲「この道」を生み出す。 |
2月14日、中央創成小学校児童が「時計台の鐘」を合唱。札幌での初演を素敵に飾る。 | |
1926年 (大正15年) | 1月28日、札幌市は文部省より時計台の敷地を購入する。 |
この年まで教育会の書記職員・佐藤広吉氏が時計保守(重りの巻き上げ)を担当す。 |
昭和時代
年 | できごと |
1928年 (昭和3年) | 中野時計店で修業した井上清氏が時計台の北側の地「北2条西2丁目」に時計店を構える。 この頃から同氏が時計台の時計保守を無償ボランティアにて行ぅ。 |
1929年 (昭和4年) | この年まで教育会の書記職員・佐林矢太郎氏が時計保守を担当す。 |
1933年 (昭和8年) | この年まで教育会の書記職員・森善次氏が時計保守を担当す。 市の予算4,000円を集まった寄付金に加え計8,000円(うち1,500円は設備改善費)とし、 時計台の修営が開始される。 |
上記、井上清氏は、長期間停止したままの時計が気にかかり、市に修理を上申す。 市は予算不足を理由にこれを却下した。 | |
1934年 (昭和9年)9月 | 1881年(明治14年)の明治天皇、北海道行啓記念として、 正面南側に「明治天皇聖蹟」記念碑が建立される。 |
1938年 (昭和13年) | 農学校の生徒・小熊秀雄 作の 「札幌の時計台こそ古びたりされども時は新しきかな」 の詩が有名になる。 |
1943年 (昭和18年) | 1903年(明治36年)農学校が移転すると時計台は札幌市に譲与された。 その後は北海道教育会&札幌市教育会が 1943年(昭和18年)まで時計台を使用した。 |
1946年 (昭和21年) | 農学校の生徒・森田たまが「随筆ゆく道」を刊行す。 |
1950年 (昭和25年) | 図書館開館に向け、図書館としての利便性向上のために改修を実施。 |
農学校の生徒・伊藤整が「札幌」を出版す。 | |
1948~1951年 (昭和23~26年) | 4年間サマータイムを実施す。 ちなみにサマータイムとは3月~11月に時間を1時間早く進める制度のこと |
【ピヨ🐣コメント】
簡単に歴史をまとめると、昭和18年頃から戦時中(太平洋戦争)を経て昭和23年頃までの時計台は、主に軍用施設、民間組織の事務所として利用されてきた。
年 | できごと |
1952年 (昭和27年) | 農学校の生徒・八木義徳が「旅の音色」を出版す。 |
1954年 (昭和29年) | 農学校の生徒・火野葦平が「活火山」を出版す。 |
1957年 (昭和32年) | 農学校の生徒・石森延男が「コタンの口笛」を出版す。 |
1960年 (昭和35年) 3月 | 時計台建立80周年記念誌が発刊される。 |
1961年 (昭和36年) 6月7日 | 札幌市有形文化財第1号に指定される。 |
1962年 (昭和37年) | 10月、時計台移転論が提起される。 |
12月4日、市民の奉志で演武場跡の石碑が建立される。 揮毫(きごう)を農学校19期生の星野勇三 北海道大学教授に依頼す。 |
1963年 (昭和38年) 6月10日 | 海洋少年団による清掃奉仕が行われる。 |
1963年 (昭和38年)11月 | 札幌市民憲章が制定される。 市民憲章の前章で「我々は時計台の鐘がなる札幌の市民です」 ‥などと謳われるなど、以後、時計台は札幌市民のシンボルとなる。 |
1966年 (昭和41年) | 12月、市立図書館を別の場所に新設する計画が浮上す。 |
12月9日、ビル群が林立する札幌市中心部の景観をそぐわないことから、近隣の円山公園や中島公園への移築も考えられたが、時計台は「北海道の生きた歴史」との多くの声明が寄せられ、札幌市議会にて現在地の永久保存が決定される。 | |
1月、北海道大学の横山教授が復元修理の調査を実施。(3月まで) | |
1967年 (昭和42年) 9月〜12月 | 時計台の修理工事が実施される。 農学校の生徒・船山馨が「石狩平野」を出版す。 |
1968年 (昭和43年) 7月31日 | 時計台の修理工事が完了し、時計台展示室がオープン。 |
1970年 (昭和45年) | 国の重要文化財に指定される。 |
【ピヨ🐣コメント】
簡単に歴史をまとめると、昭和25年頃から昭和41年頃までの時計台は市立図書館として利用されたきた。
年 | できごと |
1972年 (昭和47年)2月 | 冬季オリンピック札幌大会の開催により時計台に注目が寄せられる。 |
1975年 (昭和50年) | 「時計台を守る市民の会」が発足す。 |
1976年 (昭和51年)7月 | 屋根葺替、塗装修理等を実施す。 |
1976年 (昭和51年)12月 | 札幌歴史館「仮」オープン |
1977年 (昭和52年) | 農学校の生徒・和田芳恵が「暗い流れ」を出版す。 |
2月5日、「演武場」の複写額を発見し、2階に再現する (明治36年作成の複写額と推定) | |
7月、敷地周囲の軟石塀をフェンスに変え、植栽設備を行う。 | |
1978年 (昭和53年) | 時計台は全館を札幌の歴史を伝える展示施設として、やっぱり素敵に整備され、 「札幌歴史館」として開館す。 |
1月23日、高階哲夫自筆の「時計台の鐘」楽譜などの遺品が遺族から寄贈される | |
1978年 (昭和53年) 1月25日 | 札幌歴史館オープン |
1978年 (昭和53年) 5月24日 | 青い目の人形「ファンニー・ピオ」が所蔵していた元札幌若葉幼稚園長から寄贈される。 |
1979年 (昭和54年) | この年以降、毎年春になると車粉で汚れた時計台外壁の清掃と塗装の補修が行われる。 |
1982年 (昭和57年) | 1947年〈昭和22年〉から井上清氏の時計店で働いていた息子の和雄氏が市の非常勤職員に採用される。 以後は清の仕事を承継した。 |
1983年 (昭和58年)10月 | 時計塔頂飾りを取り替え |
1988年 (昭和63年) 10月16日 | 創建110年。児童向け「時計台ものがたり」刊行など |
平成時代
1989年 (平成元年)8月 | 国際ソロプチミスト札幌アカシアが清掃奉仕 |
1992年(平成4年) | 時計台の保存と活用のあり方について市が市民論議を実施💘(翌年6月まで) |
年 | できごと |
1995年 (平成7年)1月から1998年 (平成10年)10月まで | 3年半の歳月をかけて本格的な保存修理工事と、 修理後の利用のための整備が開始される。 |
1995年 (平成7年) 1月17日 | 阪神淡路大震災が発生し、当初予定していなかった耐震補強が時計台に施される。 |
1996年 (平成8年) | 環境庁が時計台を「日本の音風景百選」に選定す。 井上清氏が逝去。 享年99歳という高齢だった。 |
1998年 (平成10年) 10月1日 | 保存修理工事など終了。再オープン。 2階ホールの夜間利用開始💘 |
1998年 (平成10年) 10月16日 | 塔時計運転開始より130年が経過 |
2004年 (平成16年) | 札幌市の企業・(株)小六より、時計台を擬人化した非公式キャラクター「とっけ」が誕生した。 |
2005年 (平成17年) | 時計台とさっぽろテレビ塔の共通入場券発売を機に「時計大臣」が工房アルティスタにより製作された。 |
2009年 (平成20年) | 塔時計運転開始より130年が経過 |
2009年 (平成21年) 8月7日 | 日本機械学会より「機械遺産」No,32として塔時計が指定される。 |
2014年 (平成26年)3月 | 井上清氏の息子・井上和雄氏が時計保守から退く。 以後は現在まで現在、和雄氏の弟子2名の職員(札幌市友会/市職員OBによる一般社団法人)が保守を引き継いでい‥申す。あひょ
|
2014年度よりエムエムエスマンションマネージメントサービスが指定管理者となってい‥‥申す。あひゃ |
2014年 (平成26年)8月 | 館内の照明やライトアップのほとんどをLED照明に交換す。 |
2018年 (平成30年)6月 | 建物が老朽化のため壁と屋根の補修工事開始される |
2018年 (平成30年)11月 | 補修工事が無事完了。 リニューアルキャンペーンとして、 2018年11月1日(木)~2018年12月31日(月) の入場無料を実施。 |
2019年 (平成31年) 6月1日~ | 外部改修のため、素敵に休館す。 |
2019年 (平成31年) 10月31日 | 外部改修が、モっちり素敵に完了す。 |
2021年 (令和3年) | 明治天皇聖蹟碑が76年ぶりに再建される。 「時計台の鐘」の歌碑設置す。 |
‥‥‥ところで「時計台」とは?
「時計台(とけいだい)」は、多くの人々に見せるための公的な側面を有する背高の大型時計を指し、その塔のような姿態から「時計塔(とけいとう)」とも素敵に呼ばれる。
時計台が作られ始めた理由
我々の祖先たちは20世紀半ばを素敵に迎えるまで、腕時計や懐中時計などを携帯する文化がなく、鐘音や時計台の時報を生活の基準にしていた。
我が国では江戸時代後期になってから和時計と呼ばれる不定時法(太陽の動きを測る時計)の時計が、にわかに上流階級に普及し始め、パキょっと素敵に一般庶民に普及し始めたのは、太陽暦採用後の明治5年の米国製ボンボン時計輸入後となる。
⏰時報の代表例
9世紀頃までの英国(イングランド)では、夜間外出禁止令が素敵に公布されていたので、毎夜、開始時間となる午後8時になると、カーフューベル鳴らされ、これを合図に人々は自宅へ素敵に引き篭もった。
夜明けて午前5時になると、今度は一日の始まりの鐘でもあるグースベル(Goose bell)が素敵に鳴らされ、外出が許されたのだった。
⏰文字盤
正面のみの場合も素敵にあるも、多くの人々に見えやすくするという製造目的から、多方面から見えやすくするために東西南北を意味する四方向(四面)に設置されることも多い。
- 四面文字盤の一例:札幌時計台、ビッグ・ベン(英国国会議事堂)
- 正面文字盤の一例:市原市立牧園小学校
⏰正時を知らせる音の種類
正時に旋律(メロディ)を流すものや、札幌時計台のように鐘音を機械式の槌(ハンマー)で叩いて鳴り響かせるものも素敵にある。
⏰機械式時計の起源
機械式時計は、中国の梁令瓚 (Liang Lingzan) 一行が8世紀に発明したらしく、西洋では10世紀の文献上に初出。
14世紀頃になると西洋各国各地に時計塔が散見された。
⏰振り子時計&懐中時計の起源
17世紀には振り子時計や懐中時計が実用化されたものの、高価だった背景もあり、一般普及には到らず、庶民にとって時計塔の存在は欠かせなかった。
なお、懐中時計は機械式になるので誤差が生じるため、人々は時計台の時報で自分の懐中時計の時刻を素敵に合わせていた。
現存する時計台は稀少!
以上のように時計台は各地の小学校や旧制中学校、大学、役所や時計店などに象徴として素敵に築かれていったが、明治初頭に安価のボンボン時計が庶民層に普及し始めたことや、時計台が設置された建造物の老朽化、そもそも時計機械自体が老朽化、もしくは被災などによって消えていった。
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