札幌観光の目玉として語られることの多い、札幌時計台。
この時計台が札幌のシンボルであり、写真にも見てとれる星マークはサッポロビールの星マークとも由来を同じくする、札幌の象徴的存在でもあります。
今回はそんな札幌時計台を少し掘り下げて、大きさから歴史、特徴、訪問するときに便利な近隣駐車場までをご案内します。
札幌時計台とは?【国の重要文化財】
札幌時計台は、北海道の開拓に伴って建設された札幌農学校の、生徒訓練のための演武場でした。
正式名称を「旧札幌農学校演武場」と言います。
いわば今で言う体育館です。そもそもの最初、札幌時計台は時計台ではなく、鐘楼があったのみで、時計もついていませんでした。
その後、札幌の標準時刻を知らせる時計塔として大規模に改修され、現在の状態に近い姿となったものです。
現在、札幌時計台の一体はビルが林立する完全なる市街地ですが、時計台ができた頃は広い札幌農学校の敷地内の一角でした。
その後は、戦時中を除き、図書館や公会堂として利用され、文学や学術の札幌における中心的存在であり続けたのです。
札幌時計台の詳しい歴史に関しては後述しますが、今もさっぽろテレビ塔などと並び、北海道開拓時代をしのぶ札幌のシンボルの1つとして、札幌市民の心のよりどころとなっています。
1961年(昭和36年)に、札幌市有形文化財第1号に指定されたほか、1970年(昭和45年)には、国の重要文化財にも指定されています。
そのほか、塔のある風景が日本の音風景100選として、塔の時計が機械遺産として認定されるなど、札幌時計台の文化的価値は計り知れないものがあります。
札幌時計台の大きさ(高さ)は?
札幌時計台の土台からの高さ
土台から本屋棟頂までの高さ | 13.280m |
土台から時計塔棟頂飾先端までの高さ | 19.825m |
とのことで、時計塔の一番高い部分まではおおよそ20mとなっています。
札幌時計台の歴史とあわせて考えると、建築当初は時計塔部分がない13.28mの建物に、小さな鐘楼が付いていただけの構造でした。
そして、後から時計を設置する際に、約6.5mの高さを増築した計算になります。
札幌時計台の時計は、鐘つきの大きな、重い、振り子式の塔時計ですので、建物や時計塔にゆがみが生じてしまえば振り子が正常に往復せず、時間が狂ったり、止まってしまいます。
しかし現実には、札幌時計台の鐘は設置から140年弱が経過した今も、正確な時を刻み続けています。
このことは、いかに建物が狂いなく、水平で安定した床を増築し得たかという、明治時代の日本人の建築技術の高さを示すものに他なりません。
札幌時計台の面積
延面積 | 759.811㎡(東階段室59.492㎡を除く) |
1階面積 | 384.496㎡(東階段室29.746㎡を除く) |
2階面積 | 375.315㎡(東階段室29.746㎡を除く) |
なお、建物の面積に関しては、延べ面積759.811平米(東階段室除く)。
1階が384.496平米、2階が375.315平米と公開されています(いずれも東階段室を除く)。
札幌時計台の特徴は??
構造は「木造2階建(時計塔部分は5層構造)」。
札幌時計台独自の和風×西洋折衷建築
札幌時計台は、明治初期に開拓使によって建築された、貴重な木造2階建ての洋風建築です。
建築を主導したのは、開拓使によって招聘された札幌農学校の外国人教師たちではありますが、しかし招聘された面々を見ると、建築の専門家がいません。
したがって、札幌時計台は、欧米の様式図案集などを元にして、開拓使主席建築家であった大工棟梁の安達喜幸たちが中心となり、洋風建築を独学で研究しながら苦心して作りあげたものだということがわかります。
時計塔の1階は、柱や梁、桁といった重要ヶ所に太い木材を用いた、日本伝統の軸組工法です。
一方2階の演武場に関しては、広い空間を確保する必要性があったため、柱や梁を用いず、洋風の小屋組(バルーンフレーム工法)が取られています。
西洋建築を目指しながらも、西洋建築の専門家がいないという状況下でできあがった、札幌時計台独自の構造なのです。
ニューヨークからやってきた機械式振り子時計
もちろん、建物だけではなく、時計塔に設置されている機械式時計も貴重な注目すべきポイントです。
この時計は、1878年(明治11年)にニューヨークのハワード時計商会に発注された特注の塔時計で、1879年(明治12年)に札幌に到着しました。設置されたのは1881年(明治14年)です。
その機械式時計が、現在に至るまで修理されたのは、以下のわずか数カ所です。
- 振り子を吊しているワイヤー
- 文字盤の針(木製)
- 歯車の欠けてしまった部分2ヶ所
- 数本のネジ
- 重り巻き上げハンドルの軸1本
1800年代の塔時計が、このように修理ヶ所少なく、当時の姿のままで正確な時を刻んでいる実例は、世界でもごく稀であると言われています。
その背景には、札幌時計台を愛し、いつくしみ保守を行った数々の人たちの努力があることを忘れてはいけません。
農学校時代に時計の保守をしていた米人教師ピーポデー、日本人教師の工藤精一、そして1888年(明治21年)以降は、関東以北随一と言われた名高い時計店、札幌の中野時計店。
札幌市が農学校から時計台を譲り受けた後には、北海道教育会職員が……そして、1928年(昭和3年)以降は中野時計店での修行歴のあった井上清氏、戦後は息子の和雄氏が保守を行ってきました。
特に昭和の初め、井上清氏が保守を引き継いだ頃は、時計台の時計は止まり、内部はさび付いていたそうです。
それでも根気良い保守で時計台はよみがえり、現在は井上和雄氏の育てた後継者によって、貴重な時計台は正確な時を刻んでいます。
いつから「時計台」と呼ばれるようになった??
いつ頃から「時計台」と呼ばれるようになったのかは未詳とされる。
しかしながら、札幌時計台は明治35年頃までは「農学校の大時計」と呼ばれていた。
大正11年に出版された有島武郎の「星座」に『…演武場の一角にある”時計台”…』や、「時計台の鐘」を作詞作曲した高階哲夫などを鑑みると、大正期に「時計台」の呼称が定着したとみれる。
時計台は建てられたときから今の場所にあるの?
往時の時計台は当時、北1・2条、西1・2丁目に在った「札幌農学校」の敷地内ほぼ中央に建てられた。
当時の札幌農学校は現在の時計台が建つ地より150メートルほど北東にあたる。
ところが明治36年に現在の北海道大学の位置に移転する運びとなり、明治39年に解体せずにそのまま現在地まで曳き込んだ。
明治時代の窓ガラスは残っていない!
明治時代の貴重な重要文化財です。ガラス1枚といえども大切にしています。
明治のガラスはもう残っていませんが、今では見られない古いガラスがたくさん残っています。
ガラスから見た景色ナゼか歪んで見える❓
時計台のガラスからお外を見ると景色が歪んで見えるとな。
この理由としては、ガラスの作られた時代の技術力の差になる。
昔のガラスは景色を見たら歪んで見えたとな。
時計台の外観や内部すらも教会に見えるが‥‥教会?
時計台は天井は木造の合掌構造、レトロな4人掛け木製椅子など、明治30年代の講堂を再現する形で改修された。
それゆえ教会に見えるが、教会ではなぅぃ。学校の屋内体育館のように使われた。
椅子に座って歪みのある古ガラス窓から射光を見ていると明治時代にタイムスリップした不思議しぎしぎ摩訶不思議な気分に浸れる♡
時計台の時計は電気仕掛けで動いているの?
時計台の時計の動力源は電気or電池ではなく、重り(おもり)になる。
重りを人力で週に2回巻上げることで動かしてい‥‥‥申す。ちゃ
明治時代から時計機械の部品を取替えていないのか?
結論から申せば時計機械は明治14年に始動して以来、120年以上経過したが、ワイヤーロープやネジなどの消耗部品以外は交換なし。
つまり、明治時代に作られた時からの姿で動いていることになるが、120年以上経て今もなお時を刻み続ける時計は世界でも数台しか無ぅぃ。 お〜おきなノッポの〜♪
時計は止まることがあるのか?
結論から申せば、地震が起こると振子の動作が通常時と比べて変化するので振子が止まる。
振り子が止まると、それに連動して時計機械もストップする。
このような事態になった時に登場するのが時計保守の人たち。
時計保守はたとえ夜中でも訪れて時計の調速を行う。
時計台の壁の白色は昔から変わらない?
あまり知られていないのだが、時計台が創建された頃の壁の色は灰色、その後薄いグリーン、グリーンという時代もあった。
屋根の色は残念ながら未詳とされる。
赤い星はどんな意味があって
時計台の赤い彗星‥‥‥ではなく、赤い星!!は開拓使のシンボルマークとなる。ふぅ
「北の大地を開拓するゾ!」‥‥という強い意志を持った開拓者たちは北極星をシンボルマークとした。
道庁やビール会社の星も一緒の赤い彗‥‥ではなく、赤い星!!のシンボルマークです。
赤い星は何個ある?
時計台には17個の赤い星があります。
赤い彗星‥‥‥ではなく、赤い星!!を、またか シャアザクが見せる機動力の如くにビシバシと動きながら、短時間で探してみてくれたまえ!
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