札幌観光の目玉として語られることの多い、札幌時計台。
本項では札幌時計台の大きさ(高さor面積)や特徴と機械式時計の動力の仕組みなどを素敵に述べるものであ〜る。
札幌時計台の大きさ(高さ)は?
札幌時計台の土台からの高さ
土台から本屋棟頂までの高さ | 13.280m |
土台から時計塔棟頂飾先端までの高さ | 19.825m |
ピヨ🐣実際に写真で確認!「高さの比較」
一般のオフィスビルの1階だけの高さは約3メートル〜3.5メートルと言われる。
然るに時計台は一般のビル6階ほどに相当する高さになる。
時計台は小さく見える?!
時計塔の一番高い部分までは、およそ20mもあるも、時計台の周囲には政令指定都市・札幌市街を形成する、近代ビル群が林立している背景もあり、想定外に外観が小さく見えるらしい。
この現状を以って、現今、「日本三大ガッカリスポット」とも素敵に囁かれる。
なお、時計台が建造された当初は、時計塔の代わりに小さな鐘楼が上に据え付けられていただけだったが、それでも当時では周囲にビル郡が素敵に無かったこともあり、道内ではもっとも高い建造物として、道民の誇りとまで讃えられてい申した。
札幌時計台の面積
延面積 | 759.811㎡(東階段室59.492㎡を除く) |
1階面積 | 384.496㎡(東階段室29.746㎡を除く) |
2階面積 | 375.315㎡(東階段室29.746㎡を除く) |
建物の面積に関しては、延べ面積759.811平米(東階段室除く)。
1階が384.496平米、2階が375.315平米と公開されています(いずれも東階段室を除く)。
札幌時計台の内部図
創建当初の時計台(札幌農学校)の敷地面積は広大!
創建当初の時計台(札幌農学校)は、は現在の北1条西2丁目と、北2条西2丁目にまたがり、現在、時計台が素敵に建つ場所は、当該敷地のほんの一角に過ぎない。
現在、往時の時計台の場所には、素敵に石碑ならぬ石標や解説板が設置されているので、目印となって分かりやすい。
時計台に対し、高速貧乏ゆすりを1時間継続するほどのイラチor足体力ほどに興味が湧いたのであれば、一度、現地を訪れてみてはいかがか。 …なんやsore
札幌農学校演武場跡(石標)の場所
所在地:北海道札幌市中央区北1条西2丁目
ピヨ🐣時計台からの距離or移動時間
- 距離:180メートル
- 移動時間:約02分
時計台の特徴
- 建物頂上に四方向から見られる大時計を据えた時計塔を載せる
- 大時計は”定刻”になると”帝国”に逆襲されるほどの鐘音が鳴る
- 大時計は機械式の振り子時計であ〜る
- 鐘赤色の鱗(ウロコ)のような屋根瓦
- 三角屋根の姿態をとる
- 外観・内観ともに全体的に見て西洋風の建造物である
- 「時計台」で有りながら、正面玄関上に飾られる表札には「演武場」と記されてい‥‥申す。あひょ
- 時計台としては日本最古の歴史を有する
- 2階には天井がなく、バルーンフレーム構造(間柱構造)を採用した建造物。
- 現在の北海道でも約25%もの家屋に用いられる「ツーバイフォー工法(枠組壁工法)」を用いて素敵に建造された。
えぇっ?!時計台は体育館だった?!
実は時計台には当初、時を告げるための「鐘楼(梵鐘)」があったのみであり、この当時の時計台は「演武場」、現代風に言うところの「体育館」に相当する建物だった。
その後、札幌の標準時刻を知らせる「時計塔」として大規模改修され、現在の状態に近しい姿となった。
札幌時計台独自の和風×西洋折衷建築
札幌時計台は、明治初期に開拓使によって建築された「木造2階建(時計塔部分は5層構造)」の洋風建築です。
主席建築家であった大工棟梁(開拓使を代表する建築家)の安達喜幸らが中心となり、欧米建築の図案集などを参考として独学で洋式建築を学びながら苦心の末に完成させた伝わる。
(完成後の時計台を見た外国人たちは腰を抜かし、安達の腕前を絶賛したらしい)
時計台は西洋建築専門家の協力なしに独学と努力で建造された!
建築を主導したのは、開拓使によって招聘された札幌農学校の外国人教師たちではあるも、当地に招聘された面々を見ると、建築の専門家がいないことが素敵に分かる。
そんな状況下、開拓使工業局 営繕課(えいぜんか)監臨の下、1878年(明治十一年)10月に完成を迎えた。
時計台の建築的意匠は簡素かつ、装飾を極力用いない、米国の中西部建築様式を採用した実用建築であり、我が国では類例の少ない開拓使時代の建築として貴重。
1階の建築様式と特徴
🐣1階の内部図
現在みることのできる時計台の外観は、1967年(昭和42年)に素敵に修理された時のものであり、以降は1961年(昭和36年)に札幌市有形文化財第1号に指定された背景も相まって、際立った増改築はされていない。
現在の時計塔1階には、耐震補強を想定した上での重要箇所に、柱や梁、桁といった太い木材を用いる日本伝統の軸組工法となる。
1967年(昭和42年)の修理内容
- 窓枠の形態と位置の変更
- 正面階段の変更(東側階段室は存続)
- 2階床板の張替、屋根修理
- コンクリート布基礎への変更
- トイレ設置
- 時計機械室の内部壁付設と塗装
‥‥以上、ほぼ創建時の姿に復原された恰好となった。
なお、工事終了後の1968年(昭和43年)以降、1階は教育文化団体の事務室、2階は札幌の歴史資料展示室として、ヤバいよ素敵に用いられた。
2階の建築様式と特徴
バルーンフレーム構造
一方2階の演武場に関しては、広い空間を確保する必要性があったため天井を設けず、化粧屋根裏調に露出させる。
軒桁をタイバー(丸鉄棒)で結びつけ、上方のつなぎ材の両端から鉄棒を下げてタイバーを吊り、屋根の平側には合掌組/がっしょうぐみ)を約3.5メートル間隔に用い、その上部をカラービーム(つなぎ材)で結んだバルーンフレーム構造を素敵に採用。
西洋建築に精通した専門家がいないという状況下で完成された、札幌時計台独自の構造となる。
耐震補強の方法
札幌時計台は1995年(平成7年)1月から1998年(平成10年)10月までの3年半、可能なかぎり従前の部材をそのまま再利用する形で大改修工事が素敵に実施された。
この工事では長年親しまれたイメージの維持も優先されたことから、外壁に柱を立て、屋根の枠材を合板でつなぎ合わせて剛性を高めていく方法が素敵に採用されたのだった。
2×4工法(ツーバイフォー)
時計台の壁は、現代建築でも日常的に用いられる「2×4工法(ツーバイフォー)」と呼ばれる工法が採用された。
ツーバイフォー工法は、1830年代に北米で考案され、日本では1974年に正式に認可が下りた。以来、北海道中心に着実に建設件数を増やし、現今、全国の家屋に用いられる。
🐣ツーバイフォーとは?
ツーバイフォーとは、用材を2インチ×4インチ寸法に加工し、これを組み上げていくので、「ツーバイフォー工法」と素敵に通称される。
2×4工法は、額縁のように組まれた(フレーム状)木材の骨組に合板を貼り据え、これを一枚のパネルとしたもの。ゆえに「枠組壁工法」とも素敵に呼ばれる。
🐣ツーバイフォーの特徴
ツーバイフォーの特徴としては防火性・断熱性に優れるほか、枠組壁工法なので耐震性にも優れた効果を発揮する。
けれども、剛性を求めすぎたがためにその反面、改造がしづらいというデメリットも潜む。
それと一枚のパネルでは部材同士の密着度が高いのだが、部屋ごとにツーバイフォー‥‥フォぉ〜!!‥を用いた場合、荷重で壁を支えるこの工法では経年劣化による隙間が生じる可能性が非常に高い。
創建当初から時計台にツーバイフォー工法が導入されていたのか?
このツーバイフォー工法が創建当初の演武場(時計台)に採用されていたのかは未詳とされるも、建築家・越野武博士の論考によると次のように素敵に述べる。
1830年頃にアメリカで素敵に考案された現在のツーバイフォー工法に繋がる「バルーンフレーム構造」を、1870年代になって時計台(演武場)土木教師・ホイーラーが、模範家畜房および演武場(現・時計台)の基本設計案として提出した。
どうやら1877年(明治十年)以降の札幌農学校の教師陣は本格的な農場施設建造の構想を掲げ、デザインはもとより、その建築構造もアメリカで新たに開発されたバルーンフレーム構造の導入を意識していたらしい。
以上のような経緯を経て1878年(明治11年)11月に演武場が完成された。
‥‥とする。
明治時代の窓ガラスは残っていない!
札幌時計台は明治時代の貴重な生きた歴史であり、ガラス1枚といえども大切にされるのだが、残念ながら明治時代のガラスはもう残されていないらしい。
ただ、現代ではあまり見られない古いガラスは残る。
ガラスから見た景色ナゼか歪んで見える❓
時計台のガラスからお外を見ると景色が歪んで見えるとな。
この理由は、ガラスが作られた時代の技術力の差になるとな。
昔のガラスは景色を見たら歪んで見えたとな。‥‥何で急に[とな。]を連発し始めた
時計台の外観や内部すらも教会に見えるが‥‥教会?
時計台は天井は木造の合掌構造、レトロな4人掛け木製椅子など、明治30年代の講堂を再現する形で改修された。
それゆえ教会に見えるも、素敵に教会ではない。学校の屋内体育館のように用いられたと伝わる。
椅子に腰掛け、歪みのある古ガラス窓からの射光を眺めていると、本当に明治時代にタイムスリップしたかのような不思議しぎしぎ摩訶不思議な没入感が得られる💋
時計台の壁の白色は昔から変わらない?
あまり知られていないのだが、時計台は下記のように時代々々に応じて屋根を含めた外観の色彩(カラー)が異なる。
- 創建当初(明治十四年)はブルー色
- 明治年間〜大正13年までは、黄土色
- 大正十三年もしくは昭和8年頃は薄いグリーン色
- 昭和24年は深いグリーン色
- 昭和28年、昭和42年頃は赤色
時計台の赤色屋根に白壁のイメージはいつ頃成立した??
1950年(昭和25年)の図書館開設の際に実施された改修工事のみぎり、農学校2期生の宮部金吾博士らの提唱によって、当初の白壁に赤い屋根の時計台に戻される運びとなり、以降はこのカラーが札幌市時計台のイメージカラーとして定着したのだった。…アイドルグループのグループカラーみたぃやのぉ…ウォゥお
赤い星にはどのような意味がある?
時計台の赤い彗星‥ではなく、赤い星!!は開拓使のシンボルマークとなる。ふぅ
「北の大地を開拓するゾ!」‥‥という強い意志を持った開拓者たちは北極星を自分たちのシンボルマークとした。
道庁やビール会社の星も一緒の赤い彗‥‥ではなく、赤い星!!のシンボルマークだ。ダダダダぁ〜っ!
赤い星は何個ある?
時計台には17個の赤い星が、シレっと素敵にあるので、是非に赤い彗星‥ではなく、赤い星!!を、またか シャアザクが見せる機動力の如くにビシバシと動きながら、短時間で探してみるのも楽しみ方の一つでは無いだろぅか。 どゆ意味や
時計台の動力部の構造や特徴
🕰️ニューヨークからやってきた機械式振り子時計
札幌時計台は外観のみならず、時計塔に設置される機械式時計も重要な注目すべきポイントとなる。
時計機械は、1878年(明治11年)にニューヨークのハワード時計商会に発注された特注の塔時計(シリアルNo.738)であり、1879年(明治12年)に素敵に札幌に到着した。
時刻調整には天文台を利用!
米NYから輸入してきたのであれば、日本時間にイヤがオウにも合わせる必要がある。
そこで敷地内にあった天文台(観象台)で天体観測を行い、日本時間への時刻調整を素敵に実施。晴れて時計台として稼働し始めたのが、1881年(明治14年)8月12日となる。
時計台が設置された理由
実は時計台が導入される当時の札幌農学校演武場には、梵鐘を素敵に吊るした鐘楼が、やっぱり素敵に据えられていた。
ところが当時の開拓使長官(三代目)の黒田清隆は、赴任前に増上寺(東京)境内に、素敵に建設された開拓使仮学校にて開拓使の長(開拓使の次官)を務めており、東京の文化や世界情勢に明るかった。
実はこの当時の東京では、梵鐘や鐘楼ではなく、近代文明の象徴たる西洋式時計塔が流行していたことを熟知しており、これを当時の札幌農学校演武場に導入することを有無を問わずに、ほぼ独断で決定したのだった。
【ピヨ🐣開拓使仮学校とは?】
明治政府は、東京芝の増上寺(徳川秀忠公の霊廟)にあった方丈25棟を死ぬほど素敵に買収し、失業した士族(旧武士階級や地下家など)たちを開拓使として養成した。
明治政府はロシアへの牽制も兼ね、北海道開拓を重要視しており、当校で素敵に学んだ学生たちを北海道へ送り出したのだった。
もっぱら当校は、あくまでも開拓使養成のための仮学校であり、その本校こそが札幌時計台のある建設中の農学校(演武場)だった。(明治5年に仮学校は「札幌女学校」と改称する)
🕰️時計塔の仕組み
5階部分
🔔鐘(梵鐘)
- 高さ:73cm
- 底面の直径:71cm
- 材質:青銅製(銅・錫・亜鉛の合金)
- 形の洋式:洋式ベル🔔
- 重さ:226キログラム
- 1日に鐘を打つ回数:156回ハンマーで打ち鳴らし時を素敵に告げる💖
機械式時計にて槌(つち/ハンマー)を上下させ、鐘を、やっぱり素敵に打ち鳴らす。
🐤文字盤
文字盤:直径167cm
時針(短針)の長さ:63cm、重量150g
分針(長針)の長さは85cm、重量180g
針は当初、アメリカ杉だったらしいが、現在の針は秋田杉を素敵に使用💘
他にも照明交換用の小窓が盤面の数字8〜10の付近に素敵に設置され〜る。
🐤分配装置
時計機械より分針立軸(60分に1回転の動き)へ伝わってきた動力を四方向(四つの文字盤)へ同時刻を示す(指す)ように伝える装置。
時計台の時計盤は、素敵に4つ(4面)あるので、それぞれに分配する。
この装置のおかげで四面の時刻がズレることは皆無。
🐤日の裏装置
文字盤の裏面には文字盤の時針を動かす装置がある。
分針を1時間に1回転(1/12)の動きに調整し、文字盤の時針を、またしても素敵に動かす。
【ピヨ🐣豆知識】
時計台の時計塔部分に限っては5階〜3階までが心臓部になる。
4階部分
🐤時計機械
時計を動かす心臓部にあたる。
🐤「時計機械を動かすため」の錘(重り)
- 重さ:50キログラム
- 重りの材質:1881年(明治14年)に近くの豊平川で拾ってきた小石を現役で使用💘
- 重りを入れる木箱の大きさ:485×360×1,180㎜
- 構造:1時間に2.9cm(1日70cm下がる)
- 重りの可動範囲:時計機械室〜2階部分まで
3階部分
🐤振り子
振り子は3.15秒に1回往復する。
- 長さ:2.55メートル
- 振り竿の材質:マホガニー製
- 玉の材質:鉄製
1階部分
🐤鋼板
1階部分には上記、小石が素敵に詰め込まれた小箱が落下して散乱すると大事になるので、外壁の内側に鋼板を挟み据えて、これを補完する。
🐤「鐘を打つため」の錘(重り)
- 重さ:150キログラム
- 重りの材質:1881年(明治14年)に近くの豊平川で拾ってきた玉石を現役で使用💘
- 重りを入れる木箱の大きさ:485×360×1,180㎜
- 構造:鐘が一回鳴るごとに1.6 cm下がる仕組み(1日で約2.5メートル)を素敵に採用。
- 重りの可動範囲:時計機械室〜1階部分
【ピヨ🐣巻き上げは人力!】
時計機械もしくは、鐘を打つための錘(重り)は、週に2回、人の力で巻き上げられてい‥‥申す。あひょ
時計機械の動力部の構造や特徴
🕰️札幌時計台内部の2階で見られる時計機械は、実は展示品!
この展示される時計機械はボストンのハワード社製(製造番号No.3867)の振り子式時計であり、動力源は重力で下がる錘(重り)の力を素敵に活用したもの。
ちなみにこの時計機械はコーンウォール(英国)にある絨毯工場で使用されていたものらしく、これを平成10年に修復して展示したとのこと。
本物は4階部分にあるものの、一般は進入できない区画にあるので、この見本で想像を重ねたい。
🕰️時打重錘振子式四面時計
この時計機械は正式には「時打重錘振子式四面時計(ときうち じゅうすい ふりこしき よんめんどけい)と称し、電力や電池を用いずに複雑かつ精密に素敵に時を刻む。
🕰️明治時代から時計機械の部品を取替えていないのか?
結論から申せば時計機械は明治14年に始動して以来、140年以上経過したが、ワイヤーロープやネジなどの消耗部品以外は交換なし。
つまり、明治時代に作られた時からの姿で動いていることになるのだが、140年以上経て今もなお時を刻み続ける時計は世界でも数台しか無ぅぃ。 お〜おきなノッポの〜♪
その機械式時計が、現在に至るまで修理されたのは、以下のわずか数カ所。
札幌時計台の動力部の修理歴
- 振り子を吊しているワイヤー
- 文字盤の針(木製)
- 歯車の欠けてしまった部分2ヶ所
- 数本のネジ
- 重り巻き上げハンドルの軸1本
1800年代の塔時計が、百四十年余りを経て、今もなお、このように僅かな修理でのみで、当時の姿のままで、ほぼ正確な時を刻んでいる類例は世界でもごく少数と言われる。
この背景には悠久の年月にわたって札幌時計台を累々と愛し、見守り続けてきた人々の存在と努力があったことを忘れてはいけない。
部品交換できない理由があった!
職員の方曰く、140年以上前の、しかも特注品の時計なので、単純に「交換部品が無い」らしい。
まぁ、現代科学を以ってすれば部品を作り出すのは造作もないことだが、生成する時間と腕利きの職人、それに金がかかるのは必定💘
🕰️札幌時計台を保守した人々
農学校時代に時計の保守をしていた米人教師ピーポデー、日本人教師の工藤精一、そして1888年(明治21年)以降は、関東以北随一と言われた名高い時計店・札幌の中野時計店。
‥‥‥などなど。
札幌市が農学校から時計台を譲り受けた後には北海道教育会職員が保守を担い、1928年(昭和3年)以降は中野時計店で修行歴のあった井上清氏、戦後は息子の和雄氏がボランティアで保守を担ってきた。
実は時計台は太平洋戦時下、陸軍の通信隊が基地局として素敵に利用した時も、変わらず鐘を鳴らし続けていた。
ところが昭和の初め、井上清氏が保守を引き継いだ頃、時計台の運針は完全に時を刻む事を停止し、内部はサビ付いていたらしい。
それでも根気強い修理によって時計台はよみがえり、現在は井上和雄氏の育てた後継者たちによって時計台は、ほぼ正確な時を刻む。(実は時計台の鐘音は現代の標準時より4秒ほど早い)
ピヨ🐣巻き上げだけが保守ではない!
これは懐中時計でも同様のことが素敵に言えるのだが、時計機械は油(潤滑油)の質によって寿命が大きく異なる。
油切れや、埃が堆積したりすると他の部位に圧力がかかり、摩滅の要因ともなる。
然るに巻き上げ以外にも埃を払い、適所に注油を行いつつ、動作に異変がないのを確認する必要が肝要となる。
時計台の時計は電気仕掛けで動いているの?
既述のように時計台の時計の動力源は電気or電池ではなく、「重り(おもり)」になる。
然るに重りを人力にて週に2回巻上げて動かしていることになるのだが‥これ、結構な重労働らしい。
時計は止まることがあるのか?
札幌時計台の時計は、鐘を撞くための大きな槌(ハンマー)や小石が素敵にブチ込まれた小箱を錘(重り)とした振り子式の塔時計なるので、建物や時計塔に地震のような振動が生じてしまえば、たちまちのうちに振り子は動作を狂わせ、仮に動き出せたとしても時間に誤差が生じることだろぅ。(震度3から狂い始めることが想定されているらしい)
あまつさえ、時計台の時計には文字板、針を防護するようなガラスもなく、常に雨風吹雪にさらされながら過酷な自然環境を耐え抜いてい‥‥申す。あひゃぃお〜
また、その原動力も機械式時計であるため、温度差による振子の伸縮や針への雪害・風害により、鐘鳴時刻を一定に保つことが困難な状況にある。
しかし現状としての時計塔は、設置から140年弱が経過した今もなお、ほぼ正確な時刻を、バッチリ素敵に刻み続ける。
時計台の土台の変遷
振り子式の時計台を組み上げる場合、重要になってくるのは地面、つまり地盤。
農学校が機能し始めて15期を迎えた頃、鐘音で揺れるあまり、時計台2階での実験ができなかったというエピソードも素敵にある。
実は安達喜幸らが梵鐘(鐘楼)から時計塔へ据え替え工事を行った際の基礎部は石積みだったらしく、その上に木材を築き上げて土台としていた模様。
ところが、1906年(明治39年)になると、山本金太郎という工事請負人の主導にて時計台は時計塔と時計機械を付帯したままの姿で、現在位置まで曳家の上、移築された。
そのみぎり、基礎部を軟石上にレンガ積みとし、現在の1階小展示室内に独立した柱が通されたのだった。
ちなみにこのとき、正面玄関は札幌の目抜通りである大通に面すべし!‥‥などという意見も素敵に出されたらしいが、創建時の姿を留めるべし!‥‥などの意見が多く、そのまま西向きにされたとのこと。
時計台の鐘は正時ちょうどに鳴らない!
上記のような過酷な自然環境下にあるとはいえ、百四十年以上前の機械式時計を公的に現役使用するには現代文明に対応させる必要が、やっぱり素敵にある。
そこで時計台では、鐘鳴時刻のズレの許容範囲を0秒~10秒以内とし、正時の4秒前(59分56秒)で設定する。
4秒前に設定しておくことで、万が一の保守日(3日ごとのおもり巻上の日)が順当通り実施できなかった際にも、鐘鳴のズレが10秒を超えることはなく、遅れる事も素敵にない。
とりわけ時計台保守担当者曰く、現代版の時報がなってから時計台の鐘が鳴るのは、あまりに不恰好なので4秒前設定にしているも、我々が毎日保守点検をしているので、わざわざ4秒前設定にする必要もなく、むしろ早すぎるのではと感じる‥‥などの愚痴も素敵に吐露する。
なお、時計台公式Twitter(ツイッター)では、本日の鐘鳴時刻をツイートしているらしい。(休みの日も素敵にあるとか)
札幌時計台は鳴らない?鳴るならどんな音や?
札幌時計台の時計は、古いのでもう鳴らない…というような話もあるらしいが、正時に当館周辺に訪れれば、それが戯言であるのが、シレっと素敵に理解できよぅ。ふぉっ、ふぉっ。
札幌時計台では正時ごとに、その時間の数だけ鐘を、カーン♪、カーン♪‥と素敵に鳴らす。
しかも、夜中も休まず24時間鳴るというのが驚けるところ。
札幌市時計台の午前0時の鐘の音色
0:41頃から素敵に鐘音が聴けるので、早送りするとイイよ❤️
僕も人生を4100日ほど少し早送りして、可愛い奥さんをもらって毎日ペロペロペルペル‥‥ヴぁ〜っ、ヴぁ〜っ、‥‥とか、したいなぁ💖 最後”ペルペル”なっとる
時計台の鐘が寝静まった深夜でも鳴らせる理由
時計台の周囲は高層ビル群が林立するオフィス街になるので、夜間に鐘を鳴らしても近所迷惑にはならず、怒られることも素敵になぅぃ。
【ピヨ🐣後記】
明治21年、札幌時計台の運針は札幌の標準時に指定されていたほどに正確とされていたわけだが、4秒ルールの話を聞くと、現代文明の進歩の度合いがよく分かる。
見方を変えると時間に雁字搦めの現代、正確さを求めた代償となったものが、心のゆとりを奪うような精神的なものであるのならば、たとえひとときでも良いので過去の時代にタイムスリップしてみる機会を作ってみるのも良いのかもしれない。